言葉にすると誤解や偏見に囚われてしまいかねないのですが、東日本大震災関連の問題を筆頭に、マイノリティーや差別の問題は、ひとが「被害者」「加害者」「第三者」に分配されていると思います。「加害者」は「被害者」の苦しみを直視することが求められ、だからこそ「第三者」が「被害者」「加害者」のグレーゾーンに触れようとすると、アイデンティティの侵害とみなされる気がします。

「何も知らないやつが口を出すんじゃない」ということでしょうか。確かに、そういう現実はありますね。しかし、例えばいじめの問題でよくいわれるように、ある差別が現実化しているコミュニティーには、第三者は存在しません。被害を受けているひと以外は、すべて加害の当事者です。より大きな規模で捉えると、例えばヨーロッパがアジアを差別的な視線でみるオリエンタリズムなどは、アジアのうちでヨーロッパにすりより差別に荷担する存在こそが、より問題を複雑化し悪化される厄介な存在といわれます。不用意で感情的な介入は、それこそ問題をこじれさせるだけですが、「何も知らないで」といわれるのなら、まず知ろうとする努力が大切でしょう。そのうえで、自分にできることをすればいいのだ、と思います。ぼくだって、もちろんすべての問題に口を出せるわけではないし、介入もできない。もっと何かできるはずだと思っても、取り組むことさえ困難なことも多い。それでも、少しでも何かしたい、しなければ、と考えていることが大事なのではないでしょうか。