現代を生きるわれわれがアジア等に対し謝罪したところで、彼らは許してくれ、本当に友好的になるのだろうか。

難しいかもしれませんが、倫理的に筋を通しておく必要はあるでしょう。また、現在のアジア諸国間における歴史認識をめぐる険悪さは、それぞれの国々が政治的意図に基づいて扇動している面もあります。われわれとしては、アジア内で協力しあうべき一市民として、国境を越えて協力しあうべきと思います。「全学共通日本史」では毎年話しているのですが、例えば、日清戦争開戦直前に、近代兵器で武装した日本陸軍が、一般農民からなる東学党を皆殺し命令のもとに虐殺したという事件があります。日清戦争の戦死者は、日本軍約2万、清軍約3万でしたが、この皆殺し作戦を通じて出た朝鮮の死者は5万人にのぼると考えられています。当時朝鮮は日本にとって敵国でもなく、未だ併合されてもおらず、そうした状態の一般市民を殺戮することは、明確な国際法違反でした。この事件の全容は、朝鮮にまったく史料が残っておらず、虐殺に当たった日本軍兵士の手記、記録などから復原されてゆきましたが(遺族が保管してきた日本兵、士官自身の手記に、遊び半分で朝鮮農民を殺害する様子、生きたまま身体に火を付けるのを笑いながら眺める様子などが記されています)、重要なのは、韓国と日本の研究者、市民が協働で調査・研究にあたり、お互いに納得のゆく結果を友好的に得ることができたという事実です。しかしこの重要な取り組みも、そうして上で触れたそもそもの皆殺し作戦さえ、日本ではほとんど知られていないし、教科書にも載せられていません。そうして、「日本軍は日露戦争までは、ヨーロッパ列強に対抗するアジアのヒーローだった。第二次大戦になると少し行き過ぎがあったけれども…」といった司馬遼太郎史観が、史実のようにまかり通ってしまうのです。そういう意味でも、「知らない」ということは、ときに大きな問題を孕みます。