性的マイノリティであったかもしれない(ありうる)自分について考えると、そうした差別を受けている人たちに対して申し訳ないと思ってしまう。しかしそれは自己陶酔であって、逆に性的マイノリティを傷つけるものだ、とネットでいわれたことがあり、引っかかっています。共感と自己陶酔とは何なのでしょう。

難しい問題ですね。ネット上でのその指摘は、あなたが抱いた「申し訳なさ」が、性的マイノリティーへの卑下に重なるのではないか、という危惧だったと思えます。確かに、今回お話しした「サバルタンは語ることができるか」という問題のように、ある言葉なり表現が(彼らを、例えば「救済」すべく)発せられた時点で、そのこと自体が抑圧や暴力として働いてしまうことがある。自己満足、「可哀想な誰かを思いやってあげている自分エライ」といった自己陶酔が、知らず知らずのうちに自分のなかに入り込んでいる。そういう意味では、ぼく自身今回「マイノリティー」をタイトルに掲げていながら、その言葉にはちょっと気になる点があるのです。マイノリティーというラベリングをしてしまった時点で、ある人々を特定の意味付けのなかへ封じ込めてしまうことになる。「被害者」などの言葉もそうですね。われわれはそうした言葉を用いて話すしかないわけですが、だからこそ自分の言動には常に注意を払い、批判を受け容れてよく考える必要がある。そうして無責任な共感よりも、まず差別などの不当な行為に対して怒ること、納得せずに責任を持って批判の声を挙げてゆくことが、月並みなことですけれども大事なのだろうと思います。