歴史研究を行う上で、今まで歴史研究にどのような価値が与えられてきたかを考えるのは重要だと思った。口承も重要な史料になるが、ピダハンに描かれるように時制のない言語を使う人々は、歴史という概念を持つのか少し気になった。

去年発表した論文に、中国西南少数民族のヤオ族が持つ歴史観について研究したものがあります。そこでは、たとえばぼくらが「民族のアイデンティティーを保つためには絶対必要」と考え、事実ヤオ族も華やかな文書にして持ち歩いている始祖神話を、必要がなくなると(それを持っていることで逆にストレスが強まる状態になると)放棄してしまい、別の神話に作り変える場合があることを述べました。歴史とは、確かに個人、家族、部族、国家などの一体性を保つために重要なものですが、逆からみると、それは帰属意識を強制するための物語りでもあり、人間をがんじがらめにして不自由にしてゆくものでもあります。歴史学は「歴史は必要」と声高に訴えますが、ぼく自身は、「歴史の放棄の可能性」をも考慮に入れなければならない、それが歴史を総括的に取り扱う歴史学の責任だと考えています。なおピダハンについては、現在、〈プリミティヴなものへの憧憬〉に偏った把握の仕方になっていると思います。これもヨーロッパの歴史のなかで、アフリカやアメリカ、オリエントへ向けて、何度かとられてきた態度です。それを乗り越えてフラットになった地平で、どのようにピダハンの生活と向き合えるのかが問題でしょう。