ヒストリカル・パストはプラクティカル・パストの一部として考えられるという話でしたが、前者のあらゆる過去には過去それ自体の価値があるという見方(ゆえに現在に生きるための教訓を見出さない)と、後者の歴史の現在主義とは矛盾しないのでしょうか。

ヒストリカル・パストを、その歴史を生産する人々が内的にどう理解しているかという問題と、外的にどう位置づけることができるかという問題とは、混同されがちですが別々の意味を持っています。ヒストリカル・パストは、近代科学主義を奉じる人々にとっては、factを扱うものであり、現在への従属を否定する意味で教訓化などを拒みます。しかし外的に、そうしたありようをメタ化してみつめた場合には、過去を近代科学的価値観(非現在主義)に従属させているに過ぎないのです。我々が近現代的価値観を身体化させた近現代人である限り、我々が調査・研究して紡ぎ出す歴史は、たとえ古代史の叙述であったとしても、究極的には近現代史にしかなりえないのです。