『旧約聖書』のアダムのようなフィクションと考えられる話と、后羿のような誇張と考えられる話と、私には同一にみえるのですが、何か見分ける方法があるのでしょうか。 / 誇張の問題ですが、トーテム神話も何かの契機を誇張をしたのでしょうか。

フィクションと誇張とは、厳密に区別して使用しているわけではありません。アダムの何百年も生きたという譜文も、通常の人間の寿命を前提とすれば誇張ということになりますし、それほど長寿の人間がいるわけはないとの前提に立てば、フィクションに過ぎないということになるわけです。羿の射日も、「太陽を射られるわけがない」と捉えれば単なるフィクションですが、その形式の成り立ちを考えたとき、通常では射ることのできない巨大な獲物を射貫き、集落を災厄から救うといった枠組みは、狩猟採集社会の父祖語りとして珍しくはないものでしょう。最初にお話ししたように、神話のさまざまな内容・形式が父祖語りを典拠とし、参照しているとすれば、羿の物語りもそうした「日常的自慢話」を拡張して捜索されたとしても不自然ではない、ということです。