「仕奉」は支配者層だけに重要であるように思いますが、一般民衆ではどうだったのでしょうか。

まず、当時の一般民衆に、どの程度系譜意識があったのかが問題となります。7世紀まではかなり希薄で、氏族もしくは村落などへの帰属意識はあっても、歴代の系譜意識は未発達だったのではないかと考えます。しかし、7世紀末から戸籍の変成が行われるようになると、否応なく系譜の問題、父系制の家の問題、そうして王権への奉仕の問題が、人々の眼前に立ち現れてくることになります。本来は双系制であるはずが、戸籍上は父系制で表記されてゆきますので、種々の葛藤が生じたはずです。『旧約聖書』では、王が人口調査を行うたびに神が災いを降していますが、フレイザーという人類学者は、これは個別人身支配が共同体のタブーに触れるためだ、という旨の見解を述べています。日本でも義江彰夫氏が、このフレイザーの理解に基づき、古代最大の内乱である壬申の乱は、最初の戸籍庚午年籍に対する社会的反発の結果として起きたのだ、という論を立てています。民衆の前に直接存在するのは、王権の意を受けた在地の有力者であり、または都から派遣されてきた地方官ですが、個別に課される労役のなかには都へ連行されるものもあり、次第に一般の人々も、「仕奉」という概念に触れざるをえなくなっていったとは考えられるでしょう。