系譜が「仕奉」と密接に関係するなら、問題ある事跡を残した人々は、系譜から排除されるのでしょうか。関連して、孤児や余所者などは、一族や村落にとってどういう存在だったのでしょうか。

重要な質問ですね。後世の客観的な立場から編纂された系図は、諸史料を駆使して描かれていますので、例えば謀反を起こした人物などもしっかりと記録されています。しかし授業で扱った古い時代の単系系譜においては、まず王権と軋轢を起こした人物などがいた場合、そこで関係が切れてしまう、すなわちその系譜は後世に引き継がれない、残っていないという可能性も考えなくてはなりません。史料的にしっかりと立証できるわけではないのですが、例えば氏族名称の変更なども、この問題と関係があるかも分かりません。古代の王権に対する敵対者として、最も人口に膾炙しているのは蘇我氏でしょう。実際は謀反などは起こしておらず、『日本書紀』の専横を極めた記述も王権による粉飾の疑いが濃いわけですが、乙巳の変を通じて本宗家が打倒されたことに変わりはありません。その後、本宗は倉山田家が引き継いだと考えられますが、石川麻呂も謀反を疑われて命を落とし、それに替わった兄弟の赤兄も壬申の乱で配流になる。最後に残った連子の系統は、奈良時代に石川氏へと改名してゆきます。その背後には、不比等の夫人として石川氏の女性を得た藤原氏の影がちらつきますが、それも蘇我氏のイメージを払拭するためだったのかもしれません。また、『日本書紀』の欽明期崇仏論争で物部尾輿と排仏に踏み切る中臣鎌子は、中臣氏系図に名前が出てきません。崇仏論争記事はほぼフィクションと考えてよいものなので、そもそも実在の人物であるかどうかも不明なのですが、鎌足が長子を出家させる(貞恵)という極めて珍しい行動を取っている点からしても、「系図からの排除」という可能性を考えてよさそうです。