盲目の僧や琵琶法師は前から知っていたが、なぜ彼らがこのような伝承を伝える存在であるのか、疑問であった。

前近代は、現在のように医学が「発達」しておらず、社会の仕組みも異なっていましたので、身体に障がいを持って生まれてくる人、後天的に障がいを背負うことになる人が多くありました。村落で生業労働を営むことのできない盲目の人々も少なくありませんでしたが、彼らのなかには、『平家物語』に独特の節を付けて吟詠し死者の鎮魂を行う平曲語り、竈神など祟りをなす身近な神格を鎮祭する『地神経』読誦、その他卜占やさまざまな加持祈祷などの宗教的芸能を実践する盲僧たちの集団へ身を投じる者もあったのです。盲僧の組織は各地で独自の発展を遂げましたが、中世以降畿内の当道という組織が各時代の権力と結んで支配力を強め、各地の集団と軋轢を抱えつつこれを取り込んでゆきました。彼らの用いる経典、祭文は、授業でお話しした中世神話の典型で、独特の世界観を持っていますが、しかしそれは彼らのみに伝わっていたものではありません。前近代には、現在のような仏僧/神職に大別される大宗教の宗教者だけではなく、男女の民間宗教者が多様に存在し、それぞれ神仏、陰陽道的なもの、漢籍儒教道教)の習合したユニークな典籍を駆使していたのです。彼らのほとんどは近代化とともに消滅してゆき、かつてその芸能を必要とした地域の伝統も失われ、共同体の記憶もほぼ消え去ってしまいました。一般には、その活動を知る人もほとんどいないでしょう。ぼくは近年、中国などの少数民族が伝える宗教芸能、民族経典と、列島の中世・近世に実践された宗教芸能との比較を試みていますが、驚くほどに共通点を見出すことができます。〈日本〉をステレオタイプから解放する鍵のひとつは、間違いなくこのなかに隠れていそうです。