罪や穢れを川に流すこと=浄化と考えられたのはなぜですか。また、穢れの典型である死体を川に流す例は聞いたことがありません。 / 日本に色濃くみられる「ケガレを流す」という考え方は、慰安婦問題への態度にも表れているとの話を聞いたことがある。それは確証のあることなのだろうか。

川や海など、大量の水の持つ浄化作用(もちろん根本的な浄化ではなく、「拡散」に過ぎないわけですが)を、経験的に知ったことに由来するわけですが、それだけ日本列島が水の豊かな環境にあったということです。また、海の向こうには浄穢渾然一体の他界があり、そこへ送ることで罪穢はなかったことになるとみなされた。大祓祝詞が、山で樹木を伐採して川へ流すことをモチーフに罪穢の除去を論じるように、かかる行為の背景にあるメンタリティーには、「日本の伝統」として称揚されるような共生的感性も何も見出すことができません。根本は死と再生の論理でしょうが、あまりに自己の行為への責任感が希薄なために、甘えと依存ばかりが強くなってしまっています。「大きなものへ任せていればうまくゆく」という発想は、一見老子の〈無為自然〉のように、自らの卑小さを自覚した謙虚な姿勢のようですが、その内実は主体についての厳しい思考の放棄に他ならず、全体主義を容認する危険な傾向で、現在の列島社会でも極めて協力に働いています。こうした態度の怖ろしいところは、現実の複雑な問題に対する思考を停止、感性に身を任せてしまう点です。列島社会における慰安婦問題への対応は、まさに思考を排除した「自己保身」の感性的なもの。福島第1原発事故の直後、非難してきた人々に対し「放射能が伝染る」と忌避する差別があり、心理学者の斎藤環氏が「現代のケガレ」と論じたことがありました。これも、感性的な恐怖と自己防衛に身を任せ思考を放棄した結果で、やはり現在に至るまで続いています。なお、遺体を川へ流すことは普通に行われており、平安京ではその影響で水路が詰まったり、鴨川河畔が遺体で埋め尽くされたりしたこともありました。いわゆる舟葬なども、同じ発想の葬儀形式でしょう。