プラトン『パイドロス』に反映されている文字使用についてのストレスは、書承の呪術性が最初から信じられていたわけではない、ということだろうか?

ぼく自身は専門ではないので不正確な答えになってしまいますが、ソクラテスの語るタモスの言葉は、あまりに宗教的ニュアンスが希薄で不自然な印象もあります。文字の使用が一般化し、世俗的用途に使用されるようになって以降に、あらためて語られた伝承ではないでしょうか。いわゆる外部記憶装置が人間自身の能力を補完しつつ、しかし一方で退化させてもしまうことは、現在われわれ自身も経験しています。学問の世界では、コピー革命、コンピューター(インターネット)革命などと俗称されていますが、まず前者によって史資料や論文をコピーして手許に留めておくことができるようになった。おかげでそれらを手書きで写す必要はなくなったかれども、その分読み方は浅くなり、また内容を記憶しておくことができなくなってしまった。ぼくらより二世代前くらいの学者は、ふつうに主要史資料を書物ごと暗記していたりしたものです。また後者によって、データベースの構築と公開が行われ、広汎な量の史料を一字検索し、必要な記事を発見することができるようになった。それ以前は書物を一枚一枚めくり、内容を確認していたわけだが、その手間が省かれるようになったかわりに、史料を点と点でしか把握することができなくなり、その間の面的な理解が失われてしまった。また、一枚一枚めくる作業を通じて、自分のまったく意図しないところでの新たな発見をすることもなくなった。結果として、上記の革命を通じ効率性は大幅に上がったけれども、果たして研究の質は進歩したのだろうか……みな、そのように危惧しているわけです。ちょっと矮小化しすぎかもしれませんが、文字使用の際にも、同じような省察が行われたのかもしれません。