民族は「血」ではなく、社会や文化を共有する人々ということですか。とすると、宗教のように「民族を抜ける」こともあるのでしょうか?

ありえますが、実際はそう多くはないでしょうし、古い時代ならばありえなかったでしょう。「民族」が社会的・文化的概念であって生態的概念ではないというのは、あくまで客観的な分析対象として、ということです。例えば、56の民族がひしめく中国など、人種的に、あるいはDNA的に考えればほとんど相違点のない集団が、それぞれ異なる民族を自称していることは多くあります。しかし、当の民族の内的理解においては、血縁集団が幾つかまとまったものが核になっているわけですから、とうぜん「自分たちは同じ血族である」という意識が強固です。それは生まれたときから刷り込まれ、個人のアイデンティティーと化しているので、拭い去ることはできない。自身が民族としてのあり方を放棄するといっても、社会的に同意が得られないことも多いと思われます。アイヌの人々のなかには、東京で生まれ育った人もいるわけですが、北海道に暮らし伝統的な価値観を重視する人々とは異なる意見も持ちながら、やはり「アイヌであること」を引きずっていらっしゃいます。在日コリアンの人々にも、同じことがいえますね。しかしそれは宗教も同じで、ぼくは浄土真宗の僧侶ですが、もし将来的に宗旨替えすることがあったとしても、幼少の頃から刻みつけられた真宗の考え方は、関連する厖大な記憶とともになかなか消えてはくれないでしょう。そういった意味ではいつまでも、例えば「浄土真宗僧侶にして○○教徒」というような状態が続くことになるのかもしれません。