『夷酋列像』は、初めから美術品として作られたものなのですか。榎本がフランスに渡したとすれば、それは珍しいものだったからなのでしょうか。

描かれ方からすると、美術品的位置づけが濃厚であったと思いますね。少なくとも、単なる記録ではない。松前藩アイヌを従えている状態を、喧伝するために描かれたのだと思います。次回にお話しできると思いますが、清朝に、『皇清職貢図』という書物があります。「職貢図」は、中国王朝が来朝する属国や夷狄の姿や風俗を描き記録したもので、この清の「職貢図」は、現代に分布する少数民族との連続性を考えるうえで貴重な史料となっています。そこには、あらゆるものを「みる」、あるいは「慈しむ」、あるいは「弄ぶ」ことができる者こそ、支配者としての王だ、皇帝だという思想が表れています。ゆえに博物学なども、起源としては世界を総覧できる王から発進されてゆくのです。『夷酋列像』は、制作時期、構図や支配との位置づけからいっても、『皇清職貢図』をモデルのひとついしたと考えられます。榎本武揚がこの絵をフランスの将校に贈ったというのは一研究者の見解に過ぎませんが、榎本がその絵が描かれる経緯を知っていたとすれば、それは函館政府にとっても特別な意味を持ったと考えられます。同絵がフランス人将校に託された瞬間、最上徳内田沼意次から紡がれた江戸幕府蝦夷地にかける夢は、ついに終焉を迎えたのかも知れません。