松前藩は、アイヌとの軋轢においてだまし討ちなどの所行が目立つ気がします。クナシリ・メナシの処理においても、約束を反故にして全員処刑にしていますが、「やられたからやり返す」以外に、何か根源的な理由があったのでしょうか。

先行の研究書では、「松前藩の所行は戦国大名として特別異常であるわけではない」という表現をしています。確かに、だまし討ち、皆殺しは、戦国時代の各地にみることができます。ただし、アイヌ社会においてはそうした所行は一般的ではなく、それゆえに何度も和人に煮え湯を飲まされたことも、社会に憤懣となって堆積していったのでしょう。アイヌ松前氏の価値観が違いすぎたということで、ほとんど対外征服戦争の様相を呈している気がします。その意味では、1264〜1308年に至るモンゴルの樺太アイヌ遠征も、あたかもアイヌを「日本」の範疇であるかのように扱う、「北からの元寇」というタームも問題があるなと思います。