実証主義と皇国史観の軋轢は、純粋史学と応用史学の使い分けを余儀なくさせるとのお話でしたが、大学の研究者に反発などはなかったのでしょうか。

久米邦武、喜田貞吉津田左右吉など、錚々たる人々が、実証主義史学を追究した結果国体に抵触する論文を書き、社会的に糾弾され職を追われてゆきました。その結果として、純粋な研究成果を外部へ向けて発信するということが、だんだんと萎縮気味になってゆき、最終的に大学内での純粋史学による議論と、大学外での応用史学による議論とが使い分けられていったのです。また、研究者の間にも、次第に皇国史観が根差してきました。東京帝国大学でいえば、やはり平泉澄の力が非常に大きかったようで、皇国史観を否定するような発言はなかなかしづらかった。しかし、近年立教大学の史学科が進めている各大学史学科の制度的研究によれば、平泉と距離を置く研究グループも存在しており、戦時下にあっても純粋史学の火が消えることはなかったようです(ただし、平泉の皇国史観が、自らを応用史学ではなく純粋史学だと位置づけていたであろうことは、注意を要します)。