ランケの歴史観のなかで、史料批判の際に経験に基づくセンスが利用されることがあるという話がありましたが、それは客観的であるといえるのでしょうか。 / 経験主義は、人によって異なる歴史を生みだしてしまうのではないか? / 実証主義の認識論が経験主義に過ぎないという弱点は、今後も克服することができないのでしょうか? / 歴史研究を行う際、外的批判は研究の方法や目的によって異なってくるものだと思うし、内的批判だってやっぱり研究の方法・目的・考え方によって形が異なってくるものだと思うので、結局は歴史学は解釈学だなと

講義でお話ししたとおり、その点が「科学」を標榜しようとするときの歴史学の欠点です。しかし例えば、精神分析歴史学を標榜するピーター・ゲイという歴史家は、我々人間は完全に客観的な視点に立つことはできないし、その認識や記憶にも限界があって、世界で生起しているあらゆる事象を網羅的に認知することはできない。また叙述の形式はそれ自体が物語りであり、文脈を通すこと、因果関係を設定することで、自ずから多くの事象が漏れ落ちてしまう。しかし、そうした限定的で偏った視点しか持ちえない我々だからこそ、過去の誰にも見出せなかったような些細な物事に気づき、光を当てることができる。学問はひとりで実践しているわけではない。偏狭な視点しか持ちえない、それゆえに各々異なった考え方を持つ人々がそれぞれ過去に向き合うことで、他の誰もが気づかなかった過去の一局面を見出すことができる。すなわち、我々の主観の限界が、過去の豊かさ、可能性を実現してゆくのだ、という主張をしています。このような認識が、現代歴史学のひとつの到達点であるといえそうです。