セニョボスが、史料はその作者の現実に依拠せざるをえないというとき、それはE.H.カーの、歴史記述には著者の主観性が入り込んでいるという主張と同じ意味なのだろうか。
類似の意味だと捉えてよいでしょう。しかしセニョボスの問題点は、史料批判を個人心理の探究に単純化してしまったことにあります。個人の心理が種々の動きをみせるのは、常にそれを取り巻く外部との関係、相互交渉においてです。外部刺激がまったくない世界においては、我々は何も思考することができませんし、自分を自分と認識することもできません。すなわち、ある史料に書かれていることを検証するためには、記録主体が捉えた対象がいかなるものであったかも併せて総合的に探究してゆかなければ、主体が対象をどのように把握しているのかということすら分からないのです。セニョボスは、ヒトが対象を捉える認識の原理と、ヒトが社会でいかに振る舞うかという実践の原理を、混同してしまっているのです。