平安時代の白拍子は巫女としての役割も持ち、一種の信仰対象となっていたと聞いたことがあります。そこからどのようにして、近世的な遊女が成立するのでしょうか。 / 身体を売ることでお金を得るというメカニズムは、なぜ江戸時代に入って顕著になったのでしょうか。それまで人身売買はされていなかったのでしょうか。

日本では、律令国家の段階から人身売買が是認されていました。中世の一時期には、公事負担の責任者である百姓の家主が家人を売買することを、幕府が公式に認めていました。しかし、娘が売られてもそれは雑役労働者としてで、いわゆる傾城になるのは、身寄りのない女性か親が傾城であった者に限られていたようです。よって、未だ近世のように囲繞された郭内に閉じ込められた性奴隷ではなく、労働としての主体性を伴っていたともいえます。近世に遊廓の存在が際立つのは、都市社会の発展と貨幣経済の展開により、貧富の格差が拡大し、人身売買をしなければ生活できないような貧窮層が増加したためです。戦国時代までにはなかったような、親が娘に売春をさせる事態が急速に進行し、公権力もそれを貧窮渡世の選択肢として公認するようになります。講義で扱ったように、天明天保の飢饉なども大きく影響しました。また売買春のみを問題とするのなら、幕府が公認した遊廓以外にも、宿場町の岡場所や、個人の夜鷹などが存在しました。夜鷹などは、売買春の双方において不安の多い形式であり、例えば女性の側からすればどのような暴力的な目に遭わされるか、あるいは金銭を支払ってもらえない可能性もあり、男性の側からすれば、美人局などの危険を疑わねばならないかもしれない。そうした意味で遊廓は、お互いにとってできるだけ安全なように、制度として整備されているということになるでしょう。