社会史の多様化によって、より鮮明な過去が描き出せるようになったと思うのですが、なぜそうした必要があったのでしょうか。細部まで描き出そうとした理由が分かりません。

過去の姿が鮮明でないということは、それだけみえないものがある、隠されていることがあるということです。それは、例えば歴史学ならばその視角や方法が未熟であり、また時代性や権力などとの関係から無意識的に抑制されている、といったことが考えられます。時代や社会のさまざまな要素は、お互いに関連し合って事象を構築していますので、みえないもの、分からないこと、隠されているものがあれば、あらゆることを不正確にしか把握することができません。過去の姿をより鮮明にみたいというベクトルは、より正確な、より豊かな成果を得ようとする学問ならば当然のことで、それが失われれば学問ではなくなるといっても過言ではありません。社会史のベクトルを否定することは、例えば女性の歴史はみなくてよい、民衆の歴史はみなくてよい、マイノリティーの歴史は必要ない、ということと同じです。心性史や感性史を否定することは、人間は知性や論理だけで行動する生き物だということと、イコールになってしまうのです。