ハンセン病者の集団が、諸藩の運営する癩村などにおいて担っていた活動に、「死」に関わるもののほか、貸宿が含まれているのはなぜでしょうか。

これについては、ぼくもまだ実証的に理解できていません。元禄〜享保期の仙台藩では、ハンセン病者の宿貸しの実態に対し禁止措置が出ていますが、同様のことは列島各地でみられたようです。宮前千雅子氏の研究によれば、加賀藩のいわゆる癩村「物吉」でも確認される行為です。恐らくは、社会的に隔離され、また病気の進行によって外を出歩くこともままならない状態になるハンセン病者にとって、貸宿は簡易な収入源として重要だったのでしょう。かつてはハンセン病は遺伝病とみられていたわけですから、感染についてはお互いに深刻な不安を持たなかったのです。しかし、公権力側としては、ハンセン病者の隔離に支障を来すこともあり、禁制を厳命したものと考えられます。