「私」「思う」「考える」という言葉を避け、主観性を隠蔽しているということは、実際は主観性が入っていることを黙認していることになるのではないかでしょうか。

そういうことになりますね。典型的なのが教科書です。そこに書かれている内容は、誰かの学説に過ぎない、さらには仮説に過ぎないものなのに、あたかも変更のされようがない厳然とした事実のように断定されている。ナショナル・ヒストリーを提供する教科書にはぶれがあってはならないとはいえ、このことが歴史学研究の世界と歴史教育の世界に大きな溝を生じていることは確かです。