日本において、焼畑を行っていた人々の生活は、平地民のそれとはどのような相違があったのでしょう。

これも高校までの授業では習わないことかもしれませんが、近世初期の山村においては幾つかの一揆が起こり、幕府によって鎮圧されています。例えば、慶長19年(1614)の北山一揆、元和5年(1619)の椎葉山一揆、同6年(1620)の祖谷山一揆です。これらの地域は、基本的に非稲作社会で、共同体のありようも中世的なものを強く残していました。近世の幕府権力は、これらを石高制のもとに一律に支配しようとし、それに抵抗した在地勢力が幕府と衝突したものが、一揆として表現されたのだと考えられます。主要産物の相違は生活サイクルの相違、衣食住の相違、そして共同体における人と人の結びつき方の相違を生みますが、しかし近世の山村が、異文化というほどに平地の農村との異質性を持っていたわけではないでしょう。やはり、共同体が共通の差別対象、仮想敵のようなものを創り出してまとまろうとする、あるいはそれらを排除することによって、自分たちの社会のなかにあるさまざまな矛盾を隠蔽しようとする、そのために生じた虚像が大半だと考えたほうがよいように思います。