『青邱野談』の禹は、はじめ普通であったのに、山で火田民のような人々になじんだということでしょうか。『山月記』の李徴も殺人によって虎になりますが、それも被差別民になったことの譬喩なのですか?

『青邱野談』は、話の枠組みは、それこそ中国南北朝時代に作成された説話を援用したものと思います。士禍を避けて山に入った人々、苛斂誅求を受けて山に逃げ込んだ人々が、どのような状態であったのかを想像した際に、その言説の枠組みが用いられたということでしょう。物語りを構築したのは平地民の一般的な視線、もしくはヤンバンの知識人層の視点ですから、火田民を含め山にいる人々のイメージが全体的に反映されているのだとみるべきです。山に入ってしばらくすると、文明から遠離って獣のようになってしまう、しかしそこには、神仙的な超俗性も垣間見える……差別と憧れがないまぜになっている、ということでしょうか。しかしその憧れもやはりオリエンタリズム的なもので、疎外の一表現に過ぎません。なお、「山月記」の元ネタになった説話には幾つかあるのですが、その根幹はトランス・スピーシーズ、すなわち毛皮の着脱によって獣が人になる、人が獣になるという狩猟採集民の感覚に由来します。中国に極めて多い少数民族の虎トーテムに、人が虎になった話、虎と結婚する始祖神話がたくさん伝承されています。それらを漢民族的な視点で怪奇なものへ変質させたのが、「山月記」の源流になってくるのです。