「植民地支配の最先端であった北大」という云い方がなされたが、北大をはじめ東大や京大は、帝国日本においてどのような役割を果たしていたのだろうか。

北海道大学は、1876年に北海道開拓の指導者を養成するために設けられた札幌農学校を母体に、東北帝国大学農科大学を経て、1918年に北海道帝国大学となったものです。しかし上記の「開拓」がアイヌへの抑圧を含んでいたことは授業で扱ったとおりで、例えば1891年、札幌農学校には日本初の「植民学」講座が設置され、北海道をモデル・ケースとした植民地政策学が研究されていました。それを主導していたのが「武士道」で有名な新渡戸稲造で、彼はのちに東大の植民地政策学講座の主任になってゆきます(クロポトキンのところで触れた有島武郎が、農学校時代、新渡戸に「最も関心のある分野は何か」と訊かれ、「文学と歴史」と答え失笑を買ったというのは、有名な話です)。なお、東学党首魁の遺骨が発見された古河記念講堂は、古河財閥(当時は古河鉱業)の寄付によって建てられた校舎の一部です。この古河鉱業は、二代目社長を陸奥宗光の実子、副社長を原敬が務めていた官との癒着の強い会社で、足尾銅山鉱毒事件を引き起こしたことで知られています。帝国大学への寄付は、鉱毒事件による社会からの非難を交わすための方策として、原が提案したものといわれています。アイヌ遺骨問題といい、叩けばいろいろ埃は出てくるのですが、戦前・戦時下の日本の大学、研究機関、企業などは、どこも似たようなものです。問題は、そのことを自覚的に反省し、将来にわたる抑止の方策を講じているかどうかでしょう。