現前する世界は実体ではなく、観る者によって違うという話を聞いてから、自分のいる世界はいったい何なのかという、よく分からない疑問でいっぱいになってしまい、そのなかで歴史を使うということが結局どういうことなのか、こんがらかってよく分からなくなってしまいました。

高名な哲学者や思想家が長年議論し続けている問題ですので、そう簡単に答えは出ません。とにかく、言葉に対してもっと敏感になること、周到な注意を要することだけは、しっかり自覚的に行った方がよさそうです。個人的には、もし世界が言葉によって構築されており、我々がテクストの向こう側に直接アクセスすることができないとしても、我々が過去に書かれたものを読めるということは、その網の目のような構造には時間性があり、現在の我々と過去のあり方とが何らかの形で繋がっている、その繋がりを言語自体が反映していることは確かです。よって理論的にも、過去の探究は可能であることになります。歴史叙述、あるいは歴史研究の産物が、そのままの過去ではありえないとしても、それが過去を何らかの形で代理的に表象することはありえます。その表象の蓋然性をめぐって研究を繰り返し、意見交換を繰り返してゆくことは、決して無駄ではありません。