この世界は常に言葉によって規定されている、ということは、私もときどき考えます。結局、いま、思考している私は私が認識した世界に基づいて思考している以上、他者とわかりあえないのではないだろうか、と思うのですが、歴史学と直接関係ないかもしれませんが、先生の考えを伺いたいです。

確かに、他者との理解を完全に達成することはありえません。しかし、他者が理解しえないがゆえに他者なのだと考えれば、それは当然のことといえます。もし他者を完全に理解できたとすれば、論理的にはそれは同一化・一体化以外にはありえず、その時点で他者は他者ではなくなってしまうからです。理解しえない部分があること、それをしっかりと自覚することが、実は大切なのではないでしょうか。また、理解しえないことが、そのままコミュニケーションの不全を意味するわけではありません。現に我々は、その理解しえないたくさんの他者と、日々意思疎通を図って生活をしてきています。当たり前のことですが、その些細な事実も非常に大切であると思います。