ラカプラの批判は、歴史叙述の物語り性に対する、歴史学者自身の無自覚に向けられています。つまり、歴史叙述を文章による過去の再構成であると無自覚に考え、それゆえに事実性ばかりを当たり前のように主張して、本来多様なはずの過去が言語によって分節され、何らかの字句・表現、形式を用いて構築されてゆく際のプロセスについて、しっかり分析的に把握できていない。ラカプラはあくまでその点を問題にしているのであって(物語り性の自覚が過去の多様性の自覚に繋がり、歴史叙述自体の多様化〈実証主義だけではなく文学批評的な方法も可能にする〉に結びつくという考え方です)、歴史叙述自体を無効にしようとしているわけではありません。