ピーター・ゲイの、〈歪み〉を含んだ主観が歴史の多様性を実現しうるという考えは納得できますが、歴史を考えるうえでどこまでその〈歪み〉を認めるかという線引きは必要だと思いました。 / 主観という歪みが過去のある局面を明らかにすることもあるという話だったが、「正しい」主観と「間違った」主観とは、一体何なのだろうか。

誤解があるかもしれないのは、主観とは我が儘勝手、何を考えても云ってもよいということではありません。個別の主体のものの見方・感じ方を指しますが、これを可能な限り客観的なものへ近づけてゆこうとするのが、とりあえずは学問の基本的態度というものです。自己の恣意性、政治性などを徹底的に批判し、排除してゆくことは前提です。歴史学の場合であれば、過去に倫理的に向き合い、それを自分の政治的意図で歪曲することのないよう、好き勝手に表象することのないよう注意し続ける。ゲイがいっているのは、それでも主観は客観にはなりえない、なぜなら人間自体が多様な存在だからだということです。多様な人間が生きた過去が多様なのは当たり前で、それは単一不変の、それこそ客観性の権化のような数式や法則によっては探究しえない。過去の多様性を表現しうるのは、人間自身の持つ多様性、たくさんの人々が過去に向かうことで生じる豊かさだけなのです。