鯨や鳥獣が自己の身を犠牲にして我々を救ってくれているという考えは、民衆に何処まで浸透していたのですか。

このような宗教的喧伝は、宗教団体の側が一方的になすだけでは、社会に定着してゆきません。主に実際に殺生を行う猟師・漁師たち、その肉を扱う加工業者や、肉を食べる消費者たち、彼らの持っている負債感との関係のなかで相互構築されてゆくのです。よって、高邁な論理がどの程度まで理解できていたかは分かりませんが、鯨霊へ感謝・報恩する意志は強く存在したものと思います。やはり捕鯨を行っていた北陸の民間伝承では、村落の手厚い世話のうちに生きていた老婆が、「私は死んだら寄り鯨に生まれ変わって、必ずこの村に報恩する」と語っていた、老婆が死んでしばらくしてから巨大な寄り鯨があり、村人たちは老婆の恩返しだと喜んでこれを食べ、老婆を神として祀ったという話があるようです。恐らくは動物の主神話が形を変えたものですが、一般民衆における鯨観の一端を示しており、やはりそこには捨身の片鱗を窺うことができます。