北條先生が平等に歴史をみるとしたら、何を基準として正しいと考えますか?

公正平等にみるためには、何を基準とするかより、まず自分の主観を徹底的に検証することが大切でしょう。自分はなぜこの史料を、いま考えているように読もうとしているのか。自分が下した判断、結論には、政治的なバイアスが作用しているかどうかなど、常に注意してみてゆきます。このような検証作業を客観化と呼んでいいだろうと思いますが、歴史学的な営為は常にその繰り返しともいえます。しかしそのうえで私は、常に、「いかに抑圧される側の目線に立つか」を心がけています。環境史を専攻しているのも、動植物が人間との関係において抑圧的に扱われているからですし、人間社会においても、下層の人々やマイノリティーの思考、心性・感性に心を惹かれます。「それでは公正にならない」といわれそうですが、現実に隔絶した力関係が存在するなかで、抑圧される側に目を懲らさなければ、彼らに関係する記録や言説はどんどん失われていってしまいます。その意味で歴史学者は、常に支配的言説に疑いの目を向け、消し去られようとしているもの、零れ落ちてしまうものをこそ注視する。それこそが、本当の意味で「公正平等」になるのだろうと考えます。