授業と直接関係ないのですが、なぜ先生はヴェジタリアンになったのですか? / 肉食をしないとの判断は、恵まれた社会において初めて成立するのではないでしょうか。人は死体のうえで死体を食べて暮らして、最終的に死体になります。動物として、それが全うではないかと思っています。

授業でもお話ししましたが、ぼくは自分をヴェジタリアンであるとは考えていませんし、その価値観を誰かに強制しようとも思っていません。そもそもの契機は、人類学者レヴィ=ストロース狂牛病について論評した文章のなかに、「狂牛病は、人間が草食哺乳類に共食いを強いたことが原因で発生した」と記述をみつけたことです。狩猟採集社会は非常にシンプルで、人間は生活の直接的な資源とするために、自ら動物を殺し解体します。自ら/他者の生/死に向き合うなかで、その喜びや痛みを引き受けて生活しています。しかし現代資本主義社会においては、多くの人々が多様で多層的なシステムのなかに呑み込まれており、自分で殺してもいない肉を食べて快楽だけ貪り、場合によってはその殺害・解体を引き受けている人々を差別し、また狩猟や屠殺のありようを残酷だという。システムのなかでは、人間は自分の死さえ思うままにならず、病院で機械に繋がれて身体への自主性を失い、命を落としてもその死体は土へ帰らないことも多い。すなわち、「全う」ではないのです。いざ肉食をできるだけしないようにする、と心がけてみると、そうした、ふだんは自分の気づかないシステムの具体的な姿がみえてきます。それを注視するための違和感を持つ、そのために「自分からは進んで肉を食べない」ことを続けているのです。