人間の異類に対する感応能力によって、人間なりの感謝の示し方として祭祀を行うとのことでしたが、その内容は、やはり動物からすると残虐な行為にみえるのではないでしょうか。そうした方向での想像力は働かなかったのですか? / 動物の主神話などは人間のための規範であって、他者への交感の事例としては強引なのではないでしょうか?

授業でもお話ししたと思いますが、例えばイヨマンテにおいては、子熊の精霊を父や母の待つ世界へ送るという建前の理解のほかに、そうした祭儀を残酷と思い、子熊を可哀想だと思う認識とが同居しているのです。そうした感情を示すものが、注意してみてみると、代々伝えられた祈り言葉、神謡などのなかにも確認することができます。これは非常に重要なことで、祭祀の建前的解釈と相反するような詞章が散りばめられていることで、そうした多様性が存在することで、さまざまな考えや思いを抱いた人々を祭りへ包摂できる。極言すれば、それぞれの個別の解釈を祭祀のなかで獲得できるのです。そうした仕組みが活きているのは、まさに人々の他者への感応の力が活発に作用しているためです。