歴史はその時代を照らして叙述されるとあったが、それと同時に歴史は過去から繋がっている。そのような意味で、歴史の物語り論がいまいち理解できませんでした。 / 実証主義への批判としてなされた、歴史が一定の形式を持つナラティヴである、ということがよく分かりませんでした。

歴史が物語られるとき、そこに含まれるさまざまな要素、例えば登場人物(過去の人物)やその事跡、過去の事件などが、何らかの形で過去に起源を持つことは間違いありません。しかしそれをどのように語るかといったことは、時代情況の大きな束縛を受けるわけです。また、時代や社会によって、過去の語り方には特定の形式があります。例えば古代ギリシャヘロドトストゥキディデス史書は、「歴史は繰り返す」ことを前提に、未来に同じようなことが起きたとき参照できるように書かれていました。歴代中国王朝の正史は、天を価値の源泉として一定の客観的視点を保ちつつ、しかし前王朝を批判し現王朝を正当化する偏重から逃れられませんでした。現代日本の歴史論文は、客観的な体裁を保つために、「私」や「思う」といった主観を示す表現を、原則として排除しつつ記述されています。例えばそれらが同じ事象を叙述したとしても、それぞれ語られる内容は異なってきてしまうわけです。人によって言葉で綴られる歴史が、過去のすべてを網羅的に表現できるものには決してなりえない以上、それは主体が時代・社会の制約を受けつつ誰かに対して語る、物語り=ナラティヴになることは否定できず、実証主義が表明するような客観的な真理、過去そのものにはとうてい到達できないのです。