実証主義歴史学では、経験によって価値のある文献と偽書とを読み分けるという話があったが、それは完全に職人的な第六感なのでしょうか。

経験的に獲得した知識も、ある程度までは整理して秩序立てること、洗練して理論化することも可能です。しかしそれが、多くの経験的知識によって支えられている限りは限界があり、例えば例外的な事象には対応できない、これまでの知識に基づき推測することしかできないわけです。しかも、一人の人間が経験できること、学べることには限りがあり、それは他の多くの研究を援用すれば補完しうるものの、過去はそれ以上に多様性に富んでいるので、常に多くの不確かな推測を積み重ねによるしかない。もちろん、対象を細かく限定すれば、考察は経験的知識によって対応できる範囲に止まり、推測の確度は増します。例えば、太政官符という律令国家が発給した下達文書に、何がどのように書かれているかについては、文書が一部欠損し読めなくなっていても、その文書の他の部分や類似の文書との比較などによって、ほぼ正確に類推することが可能なわけです。しかし対象が広く大きくなれば、とうぜん不正確さが増していってしまう。太政官符という国家による命令形式が古代社会においてどのような意味を持ったのか、それは後世の社会にいかなる影響を及ぼしたのか、といった大きなテーマを掲げれば、もたらされる考察結果はより抽象的に、その分不確かなものになってゆかざるをえないのです。