国風文化というタームの成り立ちには、より誇らしい国家イメージを教育したい人々の願望がみてとれるが、そう考えると、主観を重要視する歴史学は、書物は徹底分析する実証主義歴史学より、事実を歪ませてしまう可能性があるのではないか。

前回も話をしましたが、主観を許容する歴史学も、「何でもいってよい」わけではありません。史料を通じて常に過去に方向付けられ、他の研究者や社会に開かれるなかで、常に反証の提起にさらされます。歴史学者はそのなかで、自らの主観に自覚的になってゆくのです。一方の実証主義は、科学性を標榜していますので、むしろ主観の何たるかには無頓着でした。「国風文化論」を脱亜的に定義した豊田武らは、いうなればバリバリの実証主義歴史学者だったのです。