遣唐使が停止されても中国の文物は入って来たとのことですが、それ以前は、やはり使者を派遣しないと唐物は輸入できなかったのでしょうか?

外交使節が商人を伴う形で行われる交易、あるいは使節自身が交易の役割も兼ねる場合が一般的でした。とくに統一新羅渤海との外交などは、一方では政治的緊張により、一方では日本の意向が達せられないことによって、交易中心のものになってゆきます。例えば9世紀半ばには、来航した新羅人張宝高は、朝鮮半島西南島嶼群の清海地域に拠り、唐・新羅・日本の貿易に従事して勢力を蓄え、感義軍使や鎮海将軍などを歴任しました。彼はのち新羅の文聖王に反したため暗殺されますが、前筑前国守の文室宮田麻呂が彼から唐物を購入すべく前払いをしており、その回収のため、張宝高の廻易使を務めていた李忠らの貨物を押収、返済を求めるなどの事件が起きています。朝廷だけでなく、北九州地域の国司や豪族、有力貴族たちが、使者に付随した利権に群がっていた様子を確認できます。こうした情況のなかで、次第に民間の商人も活躍してゆくことになりますが、比較的近距離の朝鮮などとの間には、もっと早くに小規模な交易は頻繁に存在していたと想定されます。