中国との交易によって、さまざまな病気も入って来たのではないかと思います。交易中断などの措置は採られなかったのでしょうか?

例えば、天平9年の天然痘大流行は、遣新羅使が感染して持ち込んだものであることが分かっています。奈良時代の正史『続日本紀』同年正月辛丑条によれば、遣新羅大使の阿倍継麻呂は対馬で死亡、副使の大伴三中は病のため京に入ることができなかった、とあります。これは、平城京へ入ることを許されなかったということでしょう。その後は、貴族層/庶民層に分けて治療法が頒布される一方、当時疫病は疫鬼の所行であると考えられていたため、彼らが都へ上ってくる道を塞ぐため、各所で道饗祭などが齋行されました。疫病が大規模に蔓延した場合には、使者の上陸を許可しないなど、海外との交通を断つ何らかの手段が採られたと思われます。