野鳥が人間の家宅のなかに入り込んでくることを凶兆と捉えるような文化では、鳥を愛玩用に飼育したりすることはなかったのでしょうか。あったとすれば、それはどのような意識でなされたのでしょうか。

鳥の飼育の例はあります。野鳥が室内に…という占文は、「野」鳥であることが重要なんですね。つまり、野生/文化を峻別する儒教的認識において、その境界を超えて野生が文化に侵蝕してくる、ということが問題なのだろう、それゆえに「怪異」となるのだろうと思います。逆に愛玩動物としての鳥は、野生の側から文化に取り込まれたもので、人間の完全なコントロール下にあるので、okなわけです。