徳川家康は自ら源氏を名乗り、足利氏の北朝を支持する立場にあったとのことでしたが、徳川御三家の水戸藩がなぜ家康とは異なる立場を正統としたのでしょうか?
『大日本史』は、上にも書いたとおり、北畠親房の『神皇正統記』を受け継ぐ勤王史観に立つ史書です。それだけでは徳川幕府の正当性/正統性を傷つけることにはならず、むしろ天皇の神聖化を図ることで、それにより政権を委任されている幕府の権威拡大を狙ったものと考えられます。しかし南朝正統論については、南朝を吸収した北朝の系譜にある当時の皇室・朝廷にとって、不敬に当たる可能性がありました。事実、同書を編纂した水戸彰考館においても、館員の間で議論になり決着を付けることができなかったようです。最終的には光圀が、三種神器を所持していたのが南朝であったことからこれを正統とし、そのとおり叙述されることになったわけです。ところがやはり、同書の史書としての体裁が整った享保5年(1720)、本紀・列伝・叙・修史例・引用書目・目録など計250巻を揃え幕府へ提出したところ、南朝正統論を理由に出版が差し止められる事態となりました。そののち、享保19年(1734)に至ってようやく刊行が許可されましたが、その折の「矛盾」は、結局幕末の動乱に引き継がれることになるわけです。