他の授業で、記紀における初発では「三柱が高天の原に成った」と解説されており、その起源や経緯が不明瞭なままでしたが、やはり「神が成る」という行為・状態はうまく説明できないものなのでしょうか?

そうですね、まずは近代的な意味での論理性をもっては語られない、ということでしょう。論理とは細かく分節することですので、詳細な論理が付属すればするほど、共有できない感性や思考も生じてきてしまう。するとどうしても、その神話が伝承される範囲も狭くなってきてしまうわけです。『古事記』はヤマト王権の内廷的解釈として、『日本書紀』は律令国家の公式解釈(正文のみ)として神話を載せていますが、後者などはその性格ゆえか、多様な解釈を包括できずに、多くの異伝をのせざるをえない編集になっています。広域の共同体のアイデンティティをなすような神話には、抽象的であることが不可欠の要素として求められるのだといえるでしょう。なお高天の原についてですが、実は『日本書紀』にはその存在が描かれておらず、『古事記』には天地初発以前に存在したことになっています。二書に語られていない神話がどれほどあったのかにも、想像と思考を働かせることが必要です。