中華思想のもとに外交を行ってきたはずの明は、義満が目の前で明の規定どおりに儀礼を実践しなかったのをみて、黙っていられたのでしょうか。

史料として明確に残っていないのですが、恐らく明側の使者と義満側との間でかなりの折衝があり、妥協点が探られたはずです。義満としては、現実主義的に明との外交を成就したい一方、国内の批判に配慮して、完全に臣従するような態度が喧伝されることは避けたい。また、すべてにおいて明側には屈服したくないという、自らの矜恃もあったでしょう。一方の明側は、確かな政治的業績を作り王権を安定させるため、倭寇の取り締まりは何が何でも実現したかった。すでに国書の形式においても譲歩してしまっているので、やはりそのことが大々的に喧伝されなければ、義満側に配慮した儀礼執行も許容したのではないでしょうか。もちろん、使者個人に義満から多大な贈与がなされたことも確かでしょう。お互いに儀礼を秘密裏に執り行いたい点に一致点を見出し、『返牒記』に載るような体裁になったのではないかと思われます。そうして、明側は「儀礼は規定どおりに行われた」との名目を保ち、義満の側は「仏教儀式として執り行った」という形にした。しかし後者のほうは、前提として明からの冊封を受けたことは明らかなので、公家や幕府から批判を受けることになってしまったのでしょう。