縄文時代には戦争はなく、平和であったと習いました。とすると、稲作伝来を契機に急に身分の上下が振り分けられたのでしょうか? それだと、少し不自然に感じられるのですが。

現在でも、狩猟採集社会に近い形態の民族社会は存在しますが、それらにおいては、一部への富の集中、それによる権力の偏重が禁忌とされてきました。集団で獲得した食料は、それぞれの貢献度の差違があろうと、可能な限り平等に再分配されたのです。縄文時代もそのような社会・経済であったと考えられ、実際に村落、墓葬にも、階級差を示すような規模の大小は見出されていないわけです。しかし授業でも触れましたが、弥生時代流入してきた稲作は、河川に何らかの灌漑施設を設けて水田に水を引き、季節に沿って適切な栽培作業を行ってゆく灌漑農耕でした。これには、優れた知識に技術、そして一定の計画性と、それに伴う組織的な労働力編成が不可欠になります。つまり、稲作の遂行によって余剰生産物が生み出されてゆく一方で、社会的分業と、それを統制する権力の醸成も進んでゆくことになるのです。弥生時代に階級が現れ、権力が生まれ、クニが組織されてゆくというのはそういうことです。