「縄文人の地域に縛られない生き方」からすると、渡来してきた朝鮮の人びとが稲作を広めたわけではなく、そのときすでに日本にいた弥生人が、稲作の知識を外洋にいったときに得て、帰ってきて広めたと考えられるのではないでしょうか。

いや、それは考えられません。授業でもお話ししているとおり、縄文社会のものの考え方と朝鮮から入って来た弥生社会のものの考え方は、まったく違います。それゆえに長期にわたり、首長を突出させる社会的変化、戦争を前提とした環濠集落のあり方が、玄界灘沿岸に止まっていたわけです。こうした人びとが、灌漑稲作システムとそうした思考が一体となった文化形態を自らのものとし、再構築できるほどの技術や素材を持って列島へ回帰するには、数世代の間朝鮮半島に相応の人数で止まらねばならないでしょう。当時、青銅器文化の発達期にあって大きく変動していた半島に、縄文の人びとが入り込む余地はないでしょうし、また生き残ってゆくことも困難であったと思われます。