稲作の定着に時間がかかっていたとしたら、生存にかかわるために稲作を諦めた集団もあったはずで、その傾向や割合などもかなり変わってくるのではないかと思いました。

確かにそのとおりですね。私が以前に研究していた中国西南少数民族のヤオ族は、一時期漢民族に従属して水稲耕作をしていましたが、反乱によってその待遇から解放されると、稲作を放棄して山中へ戻り、もともとの焼畑農耕の生活へ復帰してゆきます。1970年代まで朝鮮半島の山間部に生活していた火田民(焼畑民)も、大日本帝国期に朝鮮総督府から別の土地を与えられ稲作農耕を促されたにもかかわらず、やはり逃亡して山中へ戻ってゆきました。日本では戦中・戦後の教育によって、あたかも水田稲作が進歩の前提であるかのようにいわれ、半ば常識化しているわけですが、それは実際には幻想であったといえるでしょう。