北九州から東方へ伝播するにつれて濠が浅く、V字型からU字型になったとのことでしたが、北九州は朝鮮との交流が深かった分、戦いに発展することが多かったのでしょうか。 / V字型の環濠は、なぜ防御性に優れているのですか? / 東の方が平和だったということでしょうか? それはなぜなのでしょう。

朝鮮との、ということではありませんが、中国や朝鮮で培われてきた、戦争を前提とする集落のあり方、社会のあり方が、ダイレクトに伝わっていたのが北九州地域だということでしょう。そうした集落が幾つもあったとすれば、互いに紛争になる可能性も高い。環濠は、防御において実質的な意味を持っていたといえます(V字溝は、深い溝に直線的かつ急角度の傾斜を付けることで、その溝へ落ちた/入った人びとが登ってくるのを困難にする機能があります。緩やかで浅いU字溝や逆台形の溝は、落ちても這い上がってくるのが容易で、実質的な防御の機能を果たさないということです)。東日本へ伝播するに連れてその防御機能が低下してゆくということは、その必要性自体が低下したことを意味しています。すなわち集落間の緊張状態、紛争勃発の可能性が北九州より小さかったということで、それは授業でもお話ししたとおり、縄文的な共同体重視のあり方が未だ濃厚であって、突出した首長を生み出し共同体内外で紛争を準備するような情況が希薄だったのだと考えられます。