出雲の神庭荒神谷などで銅鐸がたくさん埋まっているのは、奈良時代に東大寺の大仏造立で銅の寄付命令が出た際に抵抗したのだ、と高校生のときに習いました。この説の可能性がありますか?

えーっ、高校の先生が教えてくれたのですか? うーん、ちょっと問題がありますね…。神庭荒神谷の青銅器について、確かに青銅器は伝世されることもあり、いつ埋納されたのかを特定するのは難しいのですが、? あれだけの分量が奈良時代まで伝世された実例はないこと(奈良時代以降の文献史料で、近江国などから「宝鐸が出土した」と伝えるものがあり、銅鐸のことだと考えられるのですが、多く仏教と関連付けられ、「かつてこの地に寺院があった」「仏教の聖地であった」痕跡とみなされています。つまり、弥生時代の祭器であるという記憶は失われてしまっているわけです。『出雲国風土記』大原郡神庭郷には、同地を「所造天下大神の神御財積み置き給ひし處」と記しており、8世紀初頭の段階で、青銅器埋納について何らかの伝承が存在したことを確認できます)、? 出雲が四隅突出型墳丘墓を生み出し早期に首長制の社会に入ること、などを考えると、共同体祭祀の象徴であった青銅器を埋納したのは弥生時代であったと考えることができるでしょう。