邪馬台国は狗奴国に敗れたのでしょうか? 邪馬台国は卑弥呼のあとどうなったのでしょうか?

三国志』魏書/東夷伝倭人条の語るところでは、卑弥呼の死後、狗奴国との戦闘状態がどうなったかについては記載がありません。ただ、卑弥呼のあと男王が立ったものの国内が混乱し、相誅殺して1000人余りが死ぬ事態となったため、卑弥呼の一族から13歳の台(壱)与という少女を立てたことで、ようやく国内が安定したと記されています。台与は、卑弥呼時代に魏の窓口となっていた塞曹掾史張政らに促され、魏に遣使したようですが、魏書の記録はそこで終わっているのです。狗奴国との戦闘状態も、卑弥呼死後の混乱とその収束に含まれるとすれば、最終的には邪馬台国に従属したと考えられるかと思います。邪馬台国ヤマト王権とイコールならば、卑弥呼の統治は古墳時代へスムーズに連結してゆきます。もし邪馬台国が北九州の王朝で、畿内ヤマト王権と断絶しているのならば、その間の転換をどう説明するかが課題となります。一時期、『日本書紀』の神武東征が信じられていましたが(騎馬民族征服説もその一種でしょう)、そのような大規模な制圧戦争が繰り広げられ、王権の中枢が九州から畿内へ移行した考古学的痕跡もありませんので、現在では否定されています。なお、『日本書紀神功皇后摂政66年条には、「是年、晋武帝泰初二年」に注して「晋起居注云、『武帝泰初二年十月、倭女王遣重訳貢献』」との記載があります。『晋書』起居注からの引用と思われますが、この「女王」は年代的にいって台与のことと推測されます。