箸墓が卑弥呼の墓だと信じられてきた証拠は、年代の一致以外にないのでしょうか? / 箸墓古墳や纒向遺跡は、どのように名前が付けられたのですか? いつ頃から古墳としての特性が忘れられ、また再認識されるようになったのでしょうか?

日本書紀』の崇神天皇紀には、箸墓の被葬者は倭迹迹日百襲姫命と出てきます。この女性は崇神天皇の治世を助けたシャーマンと描かれており、男性が政治を執り女性が祭祀を担当する、いわゆるヒメヒコ制を反映したものと考えられています。卑弥呼と弟王との関係にも類似しており、百襲姫=卑弥呼とする根拠のひとつになっているわけです。崇神紀には、同姫が三輪神の神嫁となっていたものの、その真の姿である蛇の形に驚き、神が「恥をかかされた」と去ってしまったため、後悔して箸で自分の陰部を突き、自死したとの伝承がみえます。ゆえに「箸」墓なのですが、実際のところは、境界領域のハシ(端)に由来する名称で、「箸」は後世の付会でしょう。いずれにしろ、8世紀には箸墓を百襲姫の墓とする認識があったわけですが、授業でもお話ししたとおり、『書紀』は卑弥呼神功皇后に重ねていますので、箸墓を卑弥呼の墓とする考え方は、のちの考古学研究によって生まれてくるわけです。なお纒向遺跡は、古代から存在する地名(垂仁天皇景行天皇の宮殿の名称にも冠されています)に基づくもので、所在地も明治に「巻向村」呼称となっています。