古墳時代の地域の自然神を崇めるようになった要因として、環境破壊による祟りを怖れたということはありませんか?

ずいぶん昔に論文として書いたことなのですが、弥生時代から古墳時代にかけて平野が次第に水田化してゆくなかで、開発の難しいポイントが森林として残されるようになり、そうした地域が神聖化され祭祀の場となっていった可能性があります。歴史時代の神社に連なる自然祭祀は、環境をドメスティケートしていった流れに、反比例するように生まれてくるのです。いわば、それらの場所だけ残しておけば神霊の災禍には遭わないという、開発の担保のようなものだったと考えられます。また、8世紀に編纂された『風土記』のなかには、行路者の行く手を阻む荒ぶる神が交通の結節点に出現し、彼らの半分を殺し半分を生かした、といった記事がみうけられるようになります。これらは恐らく、7世紀における中央集権国家の形成によって、交通・流通体系の整備が進み、これまで交通路の通っていなかった地域に官道が整備されたことに基づく表現でしょう。古代の官道は、10メートルの幅と石敷舗装を持つ直線道路で、その整備は大規模な土木工事として行われました。その工事の困難や、あるいは険路の交通において生じる困難が、荒ぶる神の祟りとして説話化されたのでしょう。古墳時代以降、自然環境との軋轢はますます強くなりますが、それは同時に、人々の心性のなかにある前代的な信仰との葛藤でもありました。環境破壊による災害を祟りと捉える発想も、以降たびたび史料に現れてくることになります。