ヤマト王権成立の基盤となる奈良盆地は、人口に比例する可耕面積からすると、大阪平野より狭いように思うのですが? 難波宮に遷都した時代もあり、生駒山地の奥に引き籠もる必要性が分かりませんでした。

飛鳥時代、明らかに国家の中心であった飛鳥は、もっと狭い領域です。政治的中心が置かれた場所は、必ずしも可耕面積の多寡に左右されません。また、古墳時代までの大阪平野は、現在の大阪平野とはまったく様相を異にしています。中心には河内湖と呼ばれる淡水湖、それに連なる低湿地帯が広汎に存在しており、水害の多発地帯でした。難波宮が位置した上町台地は、大化の宮が「難波長柄豊碕」と呼ばれたように、海へ突き出た長い岬地形だったのです。あとの講義でお話ししますが、これが、淀川水系上流で行われた度重なる宮都建設工事のため、山々から流出した土砂によって次第に陸地化が進んでゆくのは、8世紀以降のことになります。奈良盆地をみますと、四方を山地に取り囲まれた天然の要害であって、しかしそこに連なる通路は、東西南北の主要な交通網に繋がってゆきます。とくに、4〜5世紀段階では難波はいまだ王権の外港ではなく、紀ノ川の河口=紀水門がそれだったのですが、同地から川を遡上し葛城を介して奈良盆地へ至るルートが、半島に繋がる先進的文物の輸入ルートでした。奈良盆地はそれなりに、王権の胚胎する環境として好適な条件を備えていたと思われます。